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「小さな女の子たちにとっても、ただの人形じゃ……」と反論する。
彼女は幼い子どもの心もわかるし、人形に生を与えるために必要なことを知っている人なのだ。
ゴールティーのような人こそ本当のものづくりの仕事をする人なのだと思う。
彼女の人形を売っている店に、ゴールティーはお茶を買いに寄る。 そこで見つけた中国の磁器でできたランプの美しさに魅せられて、思わず買ってしまう。
それはとても高価なものだった。 買ったあとでオームスに見せたところ、その美しさを理解してもらえず、ただ値段が高過ぎることをあれこれいわれて、彼女も買ったことを後悔するはめになる。
もののはずみで買ってしまって、しまったと思うことは、私などでもしばしばある。 しかし、私はそのあたりまで。
ゴールティーはこれをきっかけに自分がつまらない人間のような気がしてきて、「寂しいの」とつぶやいて、泣いてしまう。 どんなに心をこめて子どもたちに愛される人形を作っていても、自分の中の美しいものに対する感性がわかってもらえず、ふとしたことで寂しいという気持ちが心に忍び寄ることがあり、孤独を抱えているのが、「本物の作り手」、あるいは芸術家というものなのかもしれない。
人には理解されることのない思いを抱えているのだ。 このお話の厚みは、そこを描いたことによるところが大きい。

あとは読んでもらうことにしておこう。 ゴールティーにとって人形を作る仕事は自分の生活のすべてだ。
彼女はいつも人形のことを考え、そして、誠実に、ゆっくりと時間をかけて仕事をする。 人形を作るどんな部分もおろそかにしない。
自分の考えと矛盾するものは断固扱わない。 嘘のない仕事。
だからこそ、彼女は人形を作るという、そのことで、充足できる。 早く早く、もっとたくさん、ものを作ろうという労働と正反対の働き方なのだ。
なんてすてきな仕事ぶりだろう。 自分の価値観に率直な仕事をしていることこそ、愛される人形を作れる理由なのだ。
こんな仕事をするゴールティーが孤独を感じるのは無理もない。 それでこそ本物の職人であり、芸術家なのだから。
この物語は作者自身のライフスタイルがよく反映していて、半自叙伝的な物語ともいわれている。 そして、作者の関心テーマの一つである、芸術とは何かということを定義しようとする試みであるとも。
さらには、ゴフスタインという作家は、自身の創作活動を通じて自分というものをいかに読者に「与える」ことができるかに関心をもっている作家だといわれている。 この物語はもの作りの人を書いているが、彼女の作品の、『作家』『画家』『リトルシューペルト』などもそうした系譜のもので、彼女の書くものはシンプルで小さな絵本ながら、彼女が私たちに「与えてくれる」メッセージは深くて、大きい。
汲めども尽きぬ泉のようなものだ。 ところで、あるとき、台風の翌日に、近所を散歩した。
樹木の多いところで、下を見て歩いていると、前日の風雨のせいで、あちこちに木の枝が落ちていた。 長い枝や短いの、小指ほどの太さのや鉛筆くらいのものがある。
つやつやの茶色の枝やちょっと灰色がかった枝。 よく見ると、どの枝も千差万別の表情をもっている。

枝を見た瞬間、私はゴールティーを思い出していた。 どんな枝なら、彼女は人形を作るために拾うかしらと思いながら、目が枝を選んでいた。
こんな小さな体験だけでも、ぐっと絵本の世界に近づくことができた。 人形作りのゴールティーが身近になったのだ。
私はどうやら物語を「もの」から想起する性質らしい。 その日、思わず四、五本の枝を拾って帰ってきてしまい、机に置いてこの物語をもう一度楽しんだ。
品物があふれ、人形だって、ぬいぐるみだって、デパートに行けば、大量生産のものがいっぱい売っている現代にいる私たち。 けれども、心から持っていることがうれしいという人形に出逢うことができるのだろうか。
ゴールティーのような作り手によって、心をこめて作られた人形が幼い女の子たちのところに届くことを願いたい。 人が人生で出会ういちばんはじめの友だちは、ぬいぐるみや人形かもしれない。
赤ちゃんが生まれる。 すると、母親は、この子にどんな人形を買ってあげようかしらと思うものだ。
そしてある日、デパートで、店で、「ああ、この人形だわ」と直感する人形に出会う。 ピンとくるのだ。

あるいは姪ができたおばさんが、姪っ子に人形をあげたいと思っていると、ある日、いくつもあるうちの一つの人形の目と目が合ってしまう。 そして、「あの子に、これがいい」と思う。
不思議だけれど、そんなことってある、と思う。 子どもと人形のめぐり合いはどこか人と人の出会いの不思議さを帯びている。
こうして、その子にふさわしい人形やぬいぐるみが与えられる。 赤い糸が子と人形にも一本つながっているのかもしれない、などと思ってみたりする。
たいていの場合そうなのかもしれないが、私の場合も、母親の買ってくれた人形だった。 起きているときは目を開け、横にすると目をつむるのが当時はまだめずらしかった。
ブロンズのくるくるとカールした髪もかわいらしく、大好きな人形だった。 母は人形のために着物、洋服、下着など、こまごまと作ってくれた。
布を裁ち、ミシンでカタカタと音をさせて縫う母。 そんな母のそばにいるのは至福の時間だった。
人形も自分も愛されていることを感じられる時間だったから。 『愛された人形たち』の絵本を見ていて、そんなことを思い出した。
私の愛した人形はどんなだったかしら、どこから来たのかしら、どうやって遊んだかしらと。 どこかにいってしまった人形もある。

まだ、私の手許にある人形もある。 それらの人形のことを思い出したのだ。
この本は作者が出合った人形やぬいぐるみが描かれている。 たとえば、エジプトの貧しい少女の作った布人形。
ドイツの木製の安いおもちゃだった人形。 アフリカ生まれのアクセサリーをいっぱいつけたおしゃれな人形。
日本人形の二葉ちゃん。 小蘭という中国の昔ながらの人形。
プープーローズという名前をつけられた、あちこちがほころんでさまざまな布でつくろわれた手づくりの人形。 そして、赤毛のアンの人形も。
そのほかにもたくさんの人形たちがこの絵本の中に、いる。 それはまさに「いる」というにふさわしい描かれ方なのだ。
ここに描かれた人形の大半はどこかの国の幼い子の持ち物だが、作者自身と「目が合ってしまった」人形もいくつか描かれている。 その一つ、クラウンの人形の絵の下にはこんなふうな文章もそえられている。
「ピンクの小さな花柄と、ピンクの小さなポンポンが愛らしい手作りのクラウン。 名前はピンピ。

ニューヨークのアンティックーフェアの棚の上で見つけました。 たくさんあった人形たちの中で、一瞬のうちに私の心をとらえたのです」やはり、「一瞬のうちに」という出会いがすてきだ。
子どもたちに触られ、抱かれ、遊ばれて、かなりぼろぼろになった人形も多い。 遊ばれた、愛された、それこそ人形の本望だ。
どの人形にも名前があり、持ち主がいる。 たとえば、マヤと名づけられた人形は、南米からパリにやってきた少女のたった一人の話し相手。
赤いギンガムチェックのジャンパースカートに赤い帽子をかぶり、ふっくらとした顔はいかにもおしゃべりをきいてくれそうな人形だ。


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